幸福論
人のためになることをするのが、生きているなかでとても大切なことはきっとみんな知っている。
でも、自分が幸せでないと、誰かのために生きることも出来ない。
幸せとはなんだろう⁉
それを考えたのはいつだったか⁉
オスカー・ワイルドの童話「幸福の王子」を読んだときだった。
幼い私は王子の死に泣きなから物語を読んだ。
おとなになっても折りにふれ、こころの隅からその時の気持ちを引っ張り出しては何度も何度も反芻している。
王子は、自分がみすぼらしい銅像になっても、与え続けた。
自己犠牲が幸福なのか⁉
いやそうではないと思っていた時期もあり、
結局本人が与えることで満足しているのだから、それは犠牲とは呼ばないのだろう。
オスカー・ワイルドは「ナイチンゲールとばらの花」でも、命と引き換えに白バラを赤いバラに変える。
15才の息子が宿題でこの話を英語で読まされて感想を書かなくてはならなかった。
彼には難解すぎて一体なんと書いていいのか途方にくれていた。
ナイチンゲールは自分の身を呈して尽くしたが、そのバラは打ち捨てられた。
それでも、ナイチンゲールは幸せだったと言えるのではないだろうか?
そんな風に今の私は考える。
幸福は外側にはないから。
どんなにお金があったり、端から見て円満な家庭があったとしてもわからないものだ。
Aviciiが死んだニュースを見たときに、やっぱりそう思った。
彼の曲に幸せを貰ったファンたちは沢山いた。
しかしAvicii自身はいつしか一番楽しいことを見失ってしまったのかもしれない。
彼の死因ははっきりと伝えられないけれど、そんな気持ちになったのだ。
無間地獄なんて名前、なんでつけたのだろう。
これでいいと思える自分がいるとき、その行動に後悔がないとき、どんな状態であれ、その人は幸福だと言えるのだろう。
そのためには、言い訳をしないこと。
これでいいと心底思えないと人は後悔をする。
後悔することが、人を不幸にするのだと私は知っている。
後悔するときは、言い訳をしている。
ああだったらやらなかった、こうなるならしなかった。
人に未来はわからない。
だから今していることに自分自身が責任を取らないとならない。
誰かに寄りかかろう、何かのせいにしょうと思うから、不幸になるのだ。
人生は一度きり。
いつも幸福でいるには、迷ったとしても、自分の行動に責任を持つことだ。
どんな結果にも責任を持つことだ。
それは、ありのままを受け容れること。
失敗したとしても、その経験をしたことが貴重なのだと気がつくことだ。
自分に厳しくなければそれができない。
出来る時、人はきっとどんな状況であっても、生きていることに感謝するだろう。
真の幸福はそれではなかろうか?