愚痴をいっても晴れやかにならないのはなぜ?
なぜ愚痴を言ってもスッキリしないのか?
かつての上司と私の関係は悪いものでした。
本人らだけでなく周囲も承知してました。
元上司は部の皆から信頼される人間ではなかった。それは彼が去ったあと、周囲の言から判明したわけですが。
不当な扱いを受ければ誰だって文句を言います。今なんて特にパワハラ問題に会社側は非常にナーバスになります。
最も私は上司の仕打ちを内部統制や労組に訴える気持ちにもなりませんでした。
なんにしても、与えられた状況というのはそこから何かを学べということだと思っているので切り抜ける工夫を考えて対応・行動していくしかないと、思うのです。
実はそういうことを幼いうちから学んでいけば困難な事があったときどう対処していけばいいのかの耐性もできてくるのではないかと思っています。
なので今次男はひとつの岐路に立たされていますが(前回の記事「僕は数学が嫌いだ 」)自分の意思できちんと選択していかないとならないと感じています。
周囲の忠告を自分の感情でなく冷静に受けとることが出来るかにかかっています。
それでは、感情の方ですが押殺してしまうようなことはよいのかということになります。
そして冒頭の話となる訳ですが、愚痴を言ってもモヤモヤが晴れないのは、ただ今の状況が嫌だといっているからに過ぎません。
どうしょうもない状況に立たされて嫌だとなりますが、どんな風に自分の感情がなっているのか具体的には述べられていません。
それは自分でも言語化出来ないものなので持て余しているからなので
こんなことされて嫌と言うも、その嫌には何が含まれているのかはっきりしない。
はっきりしないからモヤモヤしたままになる。
気持ちをきちんとした言語にすることは実はとても難しいのです。
それがハッキリとすると、そんな気持ちにもならないためにはどんな考え方をすればよいのか?という風に持っていけます。
愚痴は状況がハッキリとしない感情を載せることで成り立っている。だから話しても根底から心が晴れるわけではない。
そのモヤモヤした感情を一度意識できると自分がこんな風に思っているんだと客観的になれます。
客観的になると具体的な行動が浮かぶのであとはそれができるか出来ないか自分に問うことができます。
ようは自分の有り様なんですけど。
無意識を意識させるのが難しいということ。
それは無意識と言語化が近くはないからでしょう。
リーディングはこの無意識の言語化なんではないかと思います。
だから私も自分が思っていない自分のことを言われたとき、驚きながらも納得したのだと思います。
リーディング自体を他者に伝える難しさは、言語化したことを受け手に上手く伝えるイメージが難しいことにもあります。
愚痴がスッキリするひとつの方法としてリーディングによるカウンセリングを受けてみては如何がでしょうか?