「からだの声の翻訳家®️」鶴木マキ∬しあわせのシグナル∬

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自殺志願者のブログを読んで

自分のブログランキングをたまたまみたのですが、その時自分の下に位置している人のブログをなんとなく覗いてみました。


その人は自殺志願者なんですが、ブログは2012年の9月ひと月分だけで、その後はばったり更新されてません。

今どうしているのか、匿名のブログからはわかりませんが生きている限り更新すると書かれているのでそれが本当なら今はこの世からいなくなっているということなんでしょう。


こんなブログを面白がって興味半分に見る自分は悪趣味な訳ですが、本当に死にたいと思っている人はそのまま静かにフェードアウトしていくように感じるので、これだけ自己主張しているこの人はきっとどこかで匿名で他の記事を書いているのではないだろうか?と思います。


そんなことはどっちでもいいのだと思うのですが、記事の中で一点気になることがかかれていました。


それは、死にたい人には安楽死を選ばせればいいと言っているのですが、生きたくてもなかなか難しかったりする中で簡単に他者の手を借りて死ぬというのはずるいのではないか?と思うわけです。


何にずるいかと言えば、苦しみから逃れるために死のうと言うなら、苦しみ抜いて自分で決めて逝かれればいいのだと思うのです。


他力になっていてはダメなんだと、他者を巻き込まないで頂たいと思いました。


他の記事で、命の電話は無用だし意味がないみたいなことを書いてました。


命の電話は、迷い悩んでいる人が解決出来る前向きな考え方に変われるかも知れないと思いながらかけるものだと思います。

なので、死にたい病のかまってちゃんでは切られてしまって当然な気がしました。

時間の無駄でしょう。他にもこの電話を待っている人がいるのでしょうから。

絶望ばかりで一筋の希望もみだすことができない、自分に絶望しきっているなら変わる気があるとは思えません。

他者に何が変えられるでしょうか?


相手が電話を切ったことに対して、いきる意味がないことを論破されてうんぬん言っていたので、なんでこの人は電話をかける必要があったんでしょうね?そう思ってしまいました。


寂しいことを素直に表現できない、愛してほしいと貰う事ばかり言って、愛のエネルギーを搾取する側にしか私には感じられませんでした。


愛情というものはつくづく大切なものだと思います。


自分が愛を欲しいなら、自分も与えなければならないと思います。


愛情と言うのは枯れ果てることはないと思います。


相手に対して諦めない限り注ぐことは出来るでしょう。諦めた時に枯れる?という表現がおかしいなら、止まるのでしょう。


嘆いている人に思うのは、貰う事ばかり考えないで与えること。


貰うばかり考えているとこころが病気になります。


そういう人は、こんな自分に価値はないと思いながら、

価値はあるよと言ってくれる人を探す。


だけど、誰かを探すより、自分を自分で愛する、大切に思う。

これが第一段階に思います。


それは自己中心的なわがままでなく、生まれたことに価値があり、生きているということは私たちを作った得たいの知らないわからない存在から許されているからここにいるんだと思えることだと思います。

なぜ生まれて、なぜ死ぬのか人は一生をかけて学ぶんだと思います。

なら、いい人生だったと思えて終わりたいですよね。

多分それが答えなのだと私は思っています。

生まれていきる意味は、どんな状態でも生きていることは素晴らしい、今を生きていてこうして色々な感情を味わっているのは、いい人生だと思えることなんだと思います。


日々自分の感じていること、悩んでいたり面白かったり、そういうことを通して精神を成長させていくことなのだと思うのです。

だから日々を大切に生きないとならない、それが自分を愛することだと思うのです。


今どんな状態の自分でもその全てを受け入れて行くこと。これが自分を愛すること。


とても難しい。

でもこれから始めていくと、上手く行かないこともどう切り替えて行けるか?考えることが出来るのだと思うのです。


自分の人生は他力では不満ばかりになることでしょう。


受け入れて見直すこと。周囲をあてにすることは不満を作るからやめる。


人には協力をする。

その積み重ねの人生を送っていくと、きっと生きていることは素晴らしいこと。

自分で人生は切り開けるんだと思えてくるでしょう。


それがいい人生だという感想に繋がるのだと思うのです。

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