神様の思惑
神様の思惑について考える
私たちが生まれて今こうして生活しているのは
人間なんかがあずかりしらぬ存在がそうさせているからだと思うのだ。
運命は決まっていて、どの方向に行けばいいのかもきっと決まっている。勿論大まかに。
具体的な話ではないくて。
やっぱりどうしても目に見えない「魂」っていうものがあってそれを磨くために人間界に来たのだと思う。
だから人間ごときの快や不快なんてもの(感情のこと)神様には関係なくて辛かろうと、悲しかろうと苦しかろうと楽しかろうと「魂を磨いていく」と言うことのみをさせたいのではなかろうか?
だけど私たち人間は神様の思惑何てわからないから惑う。
この、惑わせるものが感情で感情は三次元だから生まれるのではないかと思う。
三次元は時間的にも空間的にも不自由さ極まる。
時間軸がないならばきっと過去も未来もわかるから不安も希望もなくなる。
予定調和に生きて死ぬだけ。
でもそこには精神の成長はなくてただ決められた通り生きるだけになる。
人間が神様と同じ次元にいないのは神様の実験の中でどうな風に反応して魂を仕上げていくのか?ってことを見ているのだと思う。
私たちの一生は時間軸を持っているからある程度永いものに感じているが、神様にとってはまばたきほどでもないのかもしれない。
私たちは自分自身のことばかり考えてしまうけれど
きっと神様の思惑はそんなところにないのだろう。
そう思うと日日の悩みとはちっぽけなものでどのように過ごせばよいかは自分の意思で選択しているようで、実はさせられているのだと思う。
選択して進んでいるように見えながら、間違えていればそちらには行けないように出来ている。
合っていれば進める。
ゴールまで何度も行きつ戻りつ迷路の中で過ごすようなもので神様の思惑が分かればそちらの方向に進めばいいだけ。それしか道がないわけたから。
間違えるから何らかの罪を作ったり同じことを形を変えてさせられる。
思惑が分かるようになると言うことは、自分のことだけ考えていては分かるようにならない。
つまり自分勝手な自己中心的なものの考え方ではわからないということだろう。
自己中心的というのは自分は悪くない、相手のせいだというものが根底にあるわけで結局不満ばかり言っていることにあるのだろう。
人間無意識で人のせいにする。
私もだ。できない不満をいう。
不満をいっても現状は変わらない。
変わったとしてもまた不満が出るだろう。
不満を言わず、大変なことでも続ければ様子が変わってくる。
それを実践して積み重ねるなかで、自分自身のこころのありようが変わっていく。
神様の思惑は計り知れないけれど、被害者意識にならないことだけは大切なのだと思えるようになった。