「からだの声の翻訳家®️」鶴木マキ∬しあわせのシグナル∬

日常から不思議な話まで。リーディングってなに?ポジティブってどんな思考?なんてことをつぶやいてます。

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リーデング中ビジョンはだれがみせているのか?

先日グループレッスンで「社会主義国」のエネルギーをみたが、
ビジョンは


逆V字型の記号が出てきて下のものの全てを吸い上げ
逆V字型が指の形のようになり何かをこねながら出してくる。
フニャフニャの横長の棒状にしたものを今度は下に流し出した。


最初と形を変えている。


つまり平等の名のもと全てを吸い上げ操作して流す。
還元するという名のもと最初と違うものになっているが
下のものたちは気がつかない。それを受け容れるだけで満足している。
結局このビジョンの伝えたいのは、
上が好きなように操作できるのが社会主義国。
操作できるトップだけに都合がよい国。
ということになる。


こういうかたちで対話に答えてくれるビジョン。
尋ねたことにビジョンでみせてくれる何者かがいるのだと思っている。


でもその存在が何者なのかどこにいるのかも知らない。


しかしみえているビジョンはこちらの問いに答えてみえるビジョンだし
質問が正しければ更に強調したり細かく細部までみせるので
何かがみせていると思っている。
私と会話しているであろう、そのものと私はその時繋がっている
と思っている。


これが自分の思い込みでないのは、ビジョンは違えども
グループレッスンで他の人の答えと自分の答えを比べた時に
共通部分があるからだ。


それは集団の無意識というものではないかと考えたりもするが
では集団の無意識とは私たちをつくったものなのだろうか?


問いに答える分からないものを名前がわからないから私は神と呼ぶ。


どんな疑問にも答えてくれるからだが、
なんでも知っているということは全てを把握している存在。
大きく言えば私たちすべてを作った存在だといえるのではなかろうか。


宗教とはあるものがいると仮定してそれを信じる、そして拝めば救われる・
願いがなかう、だから拝む。
こういう構造になっているのだとしたら、私には向かないものだと感じる。


私は拝んで救われるたり願いが叶ったりするとは信じない。
こうなりたい、こうしたいと思った時、そうなるためにはどうしたらいいか、
自ら考え行動する。
その行動が結果に結びつくか、結びつかないか?
結びつかないならどこを変えていけばいいのか?
諦めたらそれで終わると思うし、成功しないなら
視点が違うのか、するべきことではなく
やらなければならないことは他のあるということなのだろう。


ただ、その見極めをどこでするのか、それが個人差なのだろうと思っている。
だから望めば願いが叶うとは思わない。


望んで願った通りなるという人がいたらいったいどんなものなんだろうと?思う。


少々マユツバに感じるから、望んだ方に成功して行くという話は信じられない。


それでも成功した人がいるのだとしたら、無意識に正しい方向に導かれているのか?



偶然はあるかもしれないけれど(というより、
偶然のように見える必然というものがあるとは思う)
なりたい自分には自分で行動しないと近づくことは出来ない。


神様がよしと許可しないものについても
出来ないようになっていると思っている。


神様と私が呼ぶものは全てを把握しているから
当然私たちが何をしても言ってもみんな知っている。


言動をどんな意味でしているかもだ。


私が神社にお参りに行くのは(近頃毎日行けなくなってしまった。
でもそれでもいいように思っている。早起きしてお参りに行ってから
出勤することが毎日だとからだを壊すだろうと感じたので
週末行くことにしている。)
本当は毎日行ってお参りで感謝の言葉をのべるといい。
でも一度そうしていたので間が空いても顔は覚えていてくれれ
ばいいなと思います。(勝手な話かもしれないけど)


スピリチュアルはとかくマユツバな新興宗教の様に間違われるけれど、
リーディングはそういうことではない。


未来はみせてくれないし(見せたら成功しない未来を頑張る人もいなくなるだろう)、
形だけ神社に行くとしても望む通り成功をするわけではないと思う。


神様がみんなに平等なのはただ見守っているからだろう。


私たちが誰になにをいう訳でなく、自分のしていることを全て把握していて
それが良くないことなら、注意としてからだに不調を起こすと思っている。
「からだの声翻訳家®」そんな神様の注意を部位ごとに教えている。


きちんと正しい方向に行動し、思考していればからだに不調は無くなると思う。
注意を痛みや痒みで反応させる必要がないからだ。


逆にラッキーな偶然があるとすれば、それはきっと神様からの日ごろの頑張りに
対してのご褒美なのだろう。


公平にみている存在は、間違えていれば注意を伝えるが
良いことだと思っていれば良い偶然も起きるようだ。

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