エッセイ講座の話②
いつも一番早く課題作品を仕上げていた方が書けなくなった。
それはその人のこころの中でことばが感情に隠れてしまったからだと私は思ったが、そのくらいの書けないのは普通のことだという人がいる。
その方は私の親世代の方だ。
成長期に戦禍を体験している。
その人は、自分の一生を文章にしたいとずっと思っている。
それはこの先生のエッセイ講座が始まった最初から言っていらして、それはもう6年も前からの話だった。
だが、未だに子供の頃の話が書けないと言う。
それを私は今回、その方とふたりでお茶を飲む機会を得て分かった。
同じ方向に行くのが私たちをふたりになった時
コーヒーを飲んでいきませんか⁉️
と誘われたのだった。
お話を聞ける機会などなかなかないのでご一緒した。
ただ、私たちは話をするには喫茶店がうるさすぎた。
美味しいコーヒーとモンブランを頂ながら、それでもお話を聞いた。
多分、最愛のお母様を亡くされて書けなくなったYさんのことを普通だと言ったのは、個人の悲しみの体験だからだということなのだろう。
その方は、定年後、家を売り世界中を旅した方だ。その間にご結婚もなさったらしい。
その時代の話はエッセイにかかれるのでなんとなく分かっている。
ただ、先にも書いた戦争の記憶を書くことができないと言う。
自分の生涯を書く中で大切な部分なのに書けないと言う。
ことばに表すとき、その方は場面を鮮明に表現しょうとする方なので、その鮮明に表現することが難しいのだろう。
こころに大きな恐怖や悲しみ、ひもじさや辛さ、多分書ききれないものを抱えていてそれを書いて吐き出すにはまだまだ生々しいのかもしれない。
私には計り知れない感情を抱えているのだろう、その方を前にしてなんとなくそんな気がした。
私に何が言えるのか⁉️
何か少しでも取りかかれる手伝いになるものはないかと思って、
それでは書ける海外旅行から遡って行ってはいかがでしょうか⁉️
と言ってみた。しかし多分それもやってみたことだろう。
あなたはしゃれた顔をしているね
一生懸命考えてくれる
そう言われた。
この方は地球をこれ以上傷つけてはならない
と言う。地球が怒ってしまわないようにしないとならない。
これもまた、戦争によって自然を破壊してきた人間の愚かな行為への怒りなのだと思った。
私たちは出来るだけ長く平和の世の中を作っていかないとならないな、そんな風に話を聞いていて思った。