嫌われる勇気とはなんだろう?
嫌われる勇気ってどんなことなんだろう⁉
「嫌われる」と言うことは他者から自に対して嫌悪感を抱かれるわけだろうけど、そもそも
あなたのことキライ
と面と向かっていうシチュエーションってどんな場合なのか?と考えると
小さな子ならストレートに。
言われた方はショックを受けて
うわーん❗
となるだろう。かくしておとなが仲裁に入り公正に判断して
◯◯ちゃんがこんなことしたから嫌われちゃうでしょう。人が嫌がることしてはダメだよ
と言ってみたり、
そんなこと言う∇∇ちゃんは自分のことばっかり考えてる。それじゃダメでしょう。相手のことを考えてあげないと。
なんて諭しが入って人は相手を思いやらなければならないと言うことを学ぶ。
相手がどう考えるか、社会性を他人を通して人は学ぶ。
それではおとなで同じことを言う場合は?
かなり親密な関係性がないと言わないだろう。
男女間であればむしろ逆の可能性もある。
よっぽどのことがないと嫌いだと直接の意思表示はないだろう。
と言うことは
自らが嫌われているのではないか?と考える場合が
嫌われる
と言える。これは憶測で決めている訳だが
どうして言われてもいないのに嫌われているとわかるのだろう?
だって態度で分かる
そう答える人もいるだろう。
人は会話の中で相手の表情や態度から沢山の情報を読み取る。
「忖度」 などという言葉が巷に流行り、なにも言わなくても相手の気持ちを推し量る
おとなの事情 などというものも存在する。
だけどハッキリ言われていないのは自分の思い込みなのではなかろうか?
普通の場合、自分の言われたりやられたりして嫌なことは他人にしない。
大概意識してやっていれば自分が後ろめたく感じるだろう。
後ろめたいことはしないに限る。
でもこれを言ったら嫌われるなと言うことをあえて言うなら、その人は自分の主観で言っていないか見直さないとならない。
主観で好き嫌いを言うくらいなら黙っていた方がいい。
態度で既に出ているから。
その態度は他に感染するから
そういう人に嫌われたとしたら、
変な人と付き合わなくてすむと思えばいい。
嫌なことを普通の場合言わない。
それは言ったっていいことがない。嫌われちゃうから。
そう、人は他者から嫌われたいとは思わない、普通は。
それなのに、客観的に嫌われてしまうような嫌なことを言う人はありがたい人である。
嫌みでもいじめでもなく本当のことを教えてくれているのかも知れない
それは
「嫌われることも厭わない」=勇気
と言うのだろうか?
逆に言わないで失敗させて気がつかせるというのもある。
言わないで考えさせると言うのもあるだろう。
そのときは注意を与えた(または与える)対象を見守る必要があるだろう。
すると見守られる方は、見守る相手がどんな本心からそういう態度をしたのかわかるだろう。
人は自分だけで生きている訳でないので、自分の出す光を同じだけ受けた相手が返すのだと思う。
その光がどんな種類のものか?
もちろん自分が出したと同じものが返るだろう。
「朱に交われば」とか「類は友を呼ぶ」ということわざがあるように、どこかにセンサーがあって、どんな種類のエネルギーを出す人なのか嗅ぎとるのではなかろうか?
だとしたらどんなエネルギーを出したいか?
相手の感情はそのまま自分の相手への感情にもなるだろう。
だとしたらどうありたいか?
誠実であれ・正直であれ。
これが結局自分に戻るのではないか?と思うと例え嫌われようがなんだろうがどうでもいいことに思える。
どう考えても自分に戻る。
勇気と言えば、その気持ち(誠実であれ・正直であれ)を変えないでいられるかどうか。どこまで続けられるか、そこは「覚悟する」ことに通じるのかもしれない。