悩みの源

悩みがない人なんていない!!でも悩まない方法ってわからないから悩むんです。その悩みの源考えていきましょう!

欲の力(執着とは?)②




執着してしまうのは、他者から認めてほしい。
認めて欲しいのに、自分が思う通りに、認めてもらえない。
自分の基準が他者に認められることに
なってしまうのが問題なのだ。




自分がないと、人からみられる自分。
人がいいと思う自分。
それらを自分の中の基準にする。
そしてそれを無意識に演じている。
でも、それは妄想かもしれない。


本当に他者が自分にそんな期待をしているのか?
それは実際に確認しない限り
はっきりしないことだ。



そうしていると、
いつもこの自分で良いのか分からなくて
不安でいることになる。




自分で自分を認めるとは




良い自分も、嫌な自分も
自分自身で「これが私だ」と受け入れること。
けれどそのままではなく、
そこから良い方向に成長して
いこうと努力する姿が
なければ、ただ自分に甘い人ということだろう。





怠惰な自分をただす
自分もいないと。



怠惰でいること。それもまた、自己中心的だといっていい。
言い訳をしてその場から逃げることだから。



そういう人はなにか起きると、


私だけ不幸
という被害者意識になりやすい。




自分を受け入れるときは、
自分に厳しくなくてはならない。

そうでないと、
ぐずぐずとなって流されていく
甘い人間になってしまう。
(かくいう私も、分かっていながら自分に甘い。
できない言い訳を良くしている)




出来ない言い訳、条件付きの中でしかしない努力。
そういうものをやめて初めて、
自分自身と向き合えることになる。


自分の全てを受け容れることができれば、
自分が好きになれる。条件付きの中でなく
受け容れられれば他者と自分を
同じように愛せるようになる。


すると、誰かに頼ろうと思わないだろう。


執着はただ自分の都合のいいように
頼っている甘えでしかない。


まぁ、
執着しているといいことはない。
自分に厳しくするということは
自分に対して客観的でいるしかない。


客観的であれば冷静に自分を
みることが出来るから
良い面も悪い面も
他者をみるときと同じように
みることになる。


どうしていけるか?
受け入れられるか?
受け入れられないならどう変えていけるか?
考えることができる。
そしてそれを行動に出来れば
人は自分のなりたい自分に
近づいていくのではないだろうか?


その時、何かに依存する執着
はなくなっていると思うのだ。

欲の力(執着とは?)①


執着が悩みの原因。


欲と言うものは
生きる原動力となっていると
いってもいいかもしれない。


だけど、その原動力は
きれいなものばかりではなくて、
どちらかと言えば
ドロドロとしたもの
なのだろう。


もっとも、欲がなければ
文明も種の保存もなかった訳で
ある程度の欲というものは
必要なのだろう。


でもそれに固執してしまうから
苦しい気持ちや、
相手に対しての迷惑になる。


それであれば執着を無くせば
悩まなくなる訳で
執着の大半は何かと言えば
自分の思い通りにならないから
起きること。


ならば思い通りにならなくてもよいと
思えれば、執着しなくなり
悩むこともなくなる訳だ。


と、ここまで書いて
きっとこの記事を読んでる人は


それが出来れば誰も悩まねーよ❗


と思っているのに違いない。


じゃあ、執着がなぜ起きるか考えてみよう。



例えばストーカー。
あれは執着の塊。
その根底には
自分を認めてほしい


という気持ちがある。


だからストーカー被害にあったら、
徹底的に無視するしかない。
快、不快を態度に表せば
ストーカーは自分の存在を認めていると
感じて、行為はエスカレートしていく。


裏を返せば、相手がいないと
自分の存在理由がないと
思うほどになっているのが
ストーカー。


つまり「自分がない」ということだろう。


「自分がない」のに、
自己中心的な行動をするとは
これいかに?

ってとこだが


完全な妄想に生きていると
いっていいのではないだろうか⁉


つまり、自分がこうしたら相手は喜ぶはず


という思い込み。
やったことに対して、
喜んでもらえると言う
見返りを期待している


相手と自分の思いが違うことを
受け入れることが出来れば
ストーカーにはならない。


そもそも、相手を尊重する気持ちがあれば
見返りを求めない。
逆に言えば「やってあげた」
という気持ちにもならない。はず。


例えば相手に協力することは
相手に喜んでもらいたいから、
認めてもらいたいから、
ではなくて、
自分のできることだからやる。
自分のために苦労(経験)してみる、
なのだと思う。


誰かに見返りを期待してやる行為は
見返りがなかったとき
落胆する。
そして見返りを期待している(無意識にでも)
人というのは、分かるものなのだ。


ねぇ、あれ気がついた?
この間のあれ、どうだった?


と確認をしたりして。


相手に気を使わせる人と思われる。


それをみると、ああなるまいと
思う。良い反面教師だ。


そのようなことばを聞くと、
言わないようにしよう
気がつかせてくれてありがとう、
と思う。


自分にとって不快に感じることをされたら、
そう思って切り抜けている。


イラつくと、良いことがない。


話がすっかり違う方向に行ってしまう。


執着の話だった。


(長いから続きは次回へ)

50代、どう生きるか?④



(前回の続きです)



老いていくことで得るものがある。




老いて死に近づくことは
若いうちなら苦しむことを
苦しまない様にならしていく
行為でもある。




徐々に食も細くなり
だんだんと眠りも浅くなり
夢とうつつが交差してくる。




だんだんとからだの自由が奪われる。




そしてそれが当たり前に思えるようになってきて
だんだんと死を日常の中で意識してくる。




親をみていると
昔は怖かったのに、
今では穏やかになったものだと
思う。




まさに老いがそうさせている。




そして老いていく親をみながら
段々といろんな欲がそぎ落とされていくのを
みていると、こうして仏様に近づいていくのだな、
とそんな気持ちになってくる。




老いることは仏のこころに近づける。


だから日本人は仏式で式をあげることが多いのだろうか?


亡くなった人を「仏様」と呼ぶが文字通り
こころの方でも準備して召されていくようにできている。


色々な執着が消える頃、
仏のこころになるのだろう。


ほとけになるとは、
案外悪いことではない。