悩みの源

悩みがない人なんていない!!でも悩まない方法ってわからないから悩むんです。その悩みの源考えていきましょう!

講座お休み?卒業?

本日、朝日カルチャーセンターで習っていた中上先生のエッセイ教室の区切りを付けました。
山本先生の教室から数えると6年ほど通っていたことになるのでしょうか。


最初は自分が気に入っている文章を書く山本ふみこ先生に実際にお会いしたくて始めたことがきっかけでした。
その山本先生の都合でカルチャーセンターでの講座はおやめになったけれど、その後を私の好きな作家のひとり、中上健次のご令嬢、中上紀先生が引き継ぐということで参加してみたくなりました。


山本先生はエッセイストです。
私達生徒への文章の直し方は、実際に書き直しての指導となります。


中上先生は小説家からエッセイも書き出したかたです。


文章の構成、三部構成になっているとか、この言葉で繋がっているとか、一般論から入って最終は個人論を展開していて、読者に分かりやすい、共感が持てるとか。
私達の文章の中で気になる部分があっても書き直すというより、ここを注意した方はいい。という言い回しをします。


短い間でしたが中上先生の注意は私のなかで、もやもやと分からないうまくない文章を意識して書くことで、随分と分かりやすい文章になった気がしました。


しかし、時間を作る事はとても難しい。
その上、人間受信機となっているので、文章も浮かばない。


そうして辞めることにしました。
授業に出席しなくても文章だけでも送ればいいのに。そう思いながらなかなかしんどかったです。


今は課題を決めて何かを書くというより、書きたいことを書く(というのも以前より書けなくなっている自分がいるので)ということをしていきたいと思います。


今日講座のあと、先生とお話しして、ドラマを見ることに一生懸命になってしまうと、自分が考える、文章を頭のなかで紡ぐという行為が薄れてしまい余り文章が書けないと言ってみました。そういうことがあるのかと、先生にも。


そういうことは起こりうるようです。


それを聞き、暫く受信機として過ごそうと思います。
焦っても仕方がないし、見たい俳優たちが何人も出てしまったので、自分が満足するまで付き合おうと思います。


もっとも、まだ、山本先生の通信講座は1/6しか仕上げていません。
こちらもやり切らないと。

高野山へ

週末、国際カウンセラー協会で高野山へ行ってきました。


師匠のはすな先生は開祖弘法大師空海を以前からリーディングしていて、空海さんと話をなさいます。(言葉でなくビジョン…でだと思いますが、はすな先生はその人の特徴をとらえた言い方もなさるので聞こえる?耳なのか頭の中なのかわからないですがこともあるのだと思います)


今回は空海の開いた高野山に行こうということになったわけです。


和歌山県は関東地方からは遠くて、なかなか行けないのですが、正月明けにいつも行く神社へのお参りのあと、その時は比叡山延暦寺へ寄りました。


ですが、最澄よりやはり空海ということで、近いうちに高野山へ行かないとという話が出ていたのですが、早かったですね。行きましょうとなるのが。


そして今回御朱印帳と四国お遍路巡りのための御朱印帳も購入しました。


はすな先生はおっしゃるのですが、死んでいくとき、ミイラ化するように干からびてなくなっていくというのが人間の自然な死に方。


年を取り自然と食が細くなり食べることも出来なくなってくる。

それを無理に食べさせる必要はないのだといいます。


色んな欲が削ぎ落とされて仏様になるのだろうという気持ちになります。


そんな訳で、お遍路巡りというのも死出の旅立ちへの準備。


私たちのリーディングでみせてもらえるビジョンというのは宇宙を作っている存在から繋がっているものなのだと思っています。


その名前がわからないので神様といっているのですが、もしかしたらその存在に名前なんて必要ないものかもしれないなと思ったりします。


神様と仏様とは違う存在であるのは確かで、仏教の始まり、釈迦の教えは人は罪深い人でも死んだら皆仏様になるのだということ。


空海の教えは、人のなかにもう仏のこころは宿っているから、生きているうちから私たちは仏様になれるという考え方です。


仏様は神様とは違うので、はすな先生の元私たちはお寺に行くということで浄化と瞑想はしないとならないのでした。


浄化というのは無垢の丸水晶をおへそのした辺りにおいて呼吸をする方法ですが山は丸だまに何か入り込まれる可能性があるということで持参しませんでした。

ですがなんであれ呼吸法を行わないとなりませんでした。

丸玉には自分の守護神様が入ります。私たちの魂を物質化したのが丸玉だと思ってください。

しかし、山には色々なものがいるので私たちの魂をとろうとするものがいます。

なのでダミーを持ってくるとか、本体はこっそり隠すとか人によって色々な方法をとったのではないかと思います。



高野山では、浄化が足りない知らせとして、参拝中ずっと雨模様でした。


雨と言うのは天が浄化しているということになります。


雨が降った後周りの汚れを流し美しくて清々しくるのを誰もが知っていると思います。


この事については今回の旅行の終わりに先生から話されました。


何かを理由に怠惰でいること。

改めないとならないことでした。


私たちは誰も黙っていたらわからないと思っていても、神様だけは知っていて、だから怠惰でいてはいけない、誰に言われることでなくても、天からみられているのだとわかっているのにまた反省させられました。


こうして毎回、気がつかされる旅となります。