「からだの声の翻訳家®️」鶴木マキ∬しあわせのシグナル∬

日常から不思議な話まで。リーディングってなに?ポジティブってどんな思考?なんてことをつぶやいてます。

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パーソナル②

(前回の記事の続きです)


境界性パーソナリティー障害だという知り合いがいた。
子供のころに受けた親との関係性でこころに傷を負っていた。
その人が苦しむ気持ちはとても分かるけれど、同情してはならない。


同情して助けるという生半可な気持ちで人は助けられない。
その人はずっと幼いこころを抱えたまま成熟できていないところがあった。


いっぱいいっぱいになるとメールが頻繁に来るようになった。
私はきちんと確認しないとならないと再三返信した。


自分の思い込んでいるものが本当なのか、相手に訊ねて対峙していかないとならない。
不安定な感情で振れ幅が大きく、100か0しかないのだ。
結局その人は職場を去ってしまった。かなりの思い込みもあるけれど、自分が親にされたことを親になった自分は子供にしないといっていた。


長男はとても優秀であった。なぜなら勉強を間違える自分が許せないから。いつも試験は満点だったという。
親になったその人は長男の全てを認めてあげていたのだろうか?
そう考えてしまった。
誰よりも不安定で弱い自分を子供の前でもさらけ出す。リストカットも自殺未遂も止まない。
子供はそんな親を見ている。
そんな親を見ながら育った子供のこころは安定するだろうか?


その人は家族の中で自分が一番弱く守られる存在であることを主張していたのだとその行動から考えてしまう。


親になるとは、守るべきものをもつということ。


無償で愛するということを教えてくれるのは子供という存在なのだ。
自分のこと以上に愛するということを本当に教えてくれるのは子供という存在。
もちろん子供以外にそれができる人もいるだろう。
だけど私は子供という存在が私に無償の愛を教えてくれたと思う。


彼らは守らないと生きていけない。そして疑うことなく愛してくれる存在。彼らは私達が決して彼らを裏切らないと思っている。
いわないまでも親子関係の中でそれを感じ取っている。
だから愛する、疑うことなく愛せる存在となるしならねばとも思う。
この愛情は私から主人に対し感じる愛情ではないものだ。多分主人にもないだろう。


子供がいて家族になる。この強い絆があるから、主人のことを疑うこともない。
離れていようが、なんであれ子供を育てて行くという行為において私たちは強い絆で繋がっている。
それは前提に子供に対しての無償の愛情があるからなのだ。
だから無償の愛は何よりも強い愛情なのだと思う。


自分より誰かのことを愛すること、与え続けることができるのが無償の愛。


与えられてきたから私も子供に出来るのだ。
知らず生きてきた人は私の知人の様になってしまうこともあるのだろう。




話を前回の課題に戻す。


子供は親の顔色をみて育つ。
素の自分を出せずに育ったら辛くないだろうか。


愛情とは難しい。愛情をかけるのが当たり前だと思う子供。
でも自分のことでいっぱいだと子供を本当に愛せていない気がする。
無意識に自分のエゴを押し付ける。条件つけの中の愛情はこうでないければ愛されないと子供に植え付けてはいないだろうか?

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