エッセイ講座の話①
昨年末、永らく通っていたエッセイ講座の不定期講座に出席できた。
私はなかなかエッセイを出せないでいる。
既に通信講座コース(6回でワンクール)2順目の人々の中で私はまだあと1回作品を出さないと次の課題に入れない。
ブログは毎日書くことを自分に課しているからなんとか続けている。
文章を書くのは好きだが、実は毎日きちんとかいていくというのはしんどいのだ(こんなボヤキいいのだろうか?しかし本音なのだ)。
なんか書けるだろうと思うのだが、人間考え方がそれほど変わるかともないわけで、同じような内容が多いなぁと思ったりする。
それでもなぜだか誰かが見てくれているんだなと思うから(反応などないが)書く。
書いたからとて何があるのだろう?と思うが、書く。
続けた先に何があるのか⁉️
私にもわからない。知りたいから書く。
いつかここを卒業する日が来るのかもしれない。
一番自分にあったブログ記事がかける場所で書きたい。
話が逸れた。
そう、エッセイ講座に出た話だった。
誰よりも課題を早く出している方がいる。ところがその方がスランプになっていた。
母ひとり子ひとりでその方はご結婚なさらず定年後エッセイ講座に来られた方だった。
自ら、私はマザコンです、と言う。
昨年お母様を亡くされた。
とても寂しいと言ってらしたが、その時は相変わらずの早さで作品を出されていた。
だが、ここに来て途端に書けなくなったという。
もう書くことが無くなったのだと本人が言うと、先生は
生きている限りそんなことはない
と言う。
確かに感情をことばにすることは、少し客観的にならないとならないのだと思う。
ことばにならない感情というのはあってそれを他者が表現してくれたとき、人はそれを自分の感情だと思う。
そう思えるのは不思議なんだが確かに表現できる人がいる。
そういう文章に出会えたとき人は何度も何度もその文章を読む。
自分の血や肉にしようとするように咀嚼するように何度も。
その中に自分を見つけたからだ。
その人は多分今自分のことばにならないことばを探しているのではないか?私はそのように思った。
私はその様に思ったのだが、この講座で最初からいらっしゃるある方が、
Yさんの書けないのは普通です。
と言う。私はなぜそのことばが出たのか興味を持った。
そして、それは。
長くなったので、また次に